東京地方裁判所 平成3年(ワ)7697号 判決 1992年12月21日
原告
中山緑朗
右訴訟代理人弁護士
佐藤義行
同
金丸精孝
同
宇佐美方宏
同
大塚尚宏
同
後藤正幸
被告
学校法人昭和女子大学
右代表者理事
人見楠郎
右訴訟代理人弁護士
阿部隆彦
主文
一 原告が被告に対し雇用契約上の権利を有する地位にあることを確認する。
二 被告は、原告に対し、平成三年九月から本判決確定に至るまで、毎月二一日限り金六一万九〇〇〇円及びこれに対する毎月二二日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
三 原告の請求中、本判決確定の日の翌日から毎月二一日限り金六一万九〇〇〇円及びこれに対する毎月二二日から完済まで年五分の割合による金員の支払を求める部分を却下する。
四 訴訟費用は被告の負担とする。
五 この判決は、第二項に限り、仮に執行することができる。
事実及び理由
第一請求
一 主文第一項同旨
二 被告は、原告に対し、平成三年九月から毎月二一日限り金六一万九〇〇〇円及びこれに対する毎月二二日から完済まで年五分の割合による金員を支払え。
第二事案の概要
本件は、原告から退職願と題する書面の提出を受けた被告が、右退職願による雇用契約解約の申込みに対して承諾の意思表示をしたと主張して、原告の雇用契約上の地位を争ったのに対して、原告が、これらの意思表示を否認し、また、退職の意思表示は心裡留保によるものであるが、そのことは被告も知っていたとして、右地位の確認と請求記載の賃金(平成三年四月一日及び平成四年四月一日の昇給分を除く一部請求)の支払を求めた事案である。
一 争いのない事実
1 被告は、昭和女子大学等を設置、運営する私立学校法三条の学校法人である。
原告は、昭和五二年四月一日、昭和女子大学短期大学部国語国文学科専任講師として被告に雇用され、昭和五六年四月一日に短期大学部助教授に、平成二年四月一日同教授に任命された。
2 平成三年三月当時、原告の賃金額は月額六一万九〇〇〇円であり、その支払は毎月二一日までに原告の預金口座に振り込んで行われていた。
3 原告は、同年三月一二日、別紙(一)(略)のような記載を含む「退職願」と題する書面(以下「本件退職願」という。)を被告に提出した。
4 原告の被告との間の雇用契約関係が同年九月末まで存続していたことは当事者間に争いがないが、同年一〇月以降については、被告は、原告との雇用契約関係を合意解約を理由に否定している。
5 なお、同年四月以降、原告は、被告の設置、運営する昭和女子大学等での教授等の具体的職務から外されていた。
二 争点
本件の中心的争点は、原告と被告との間に本件雇用契約についての解約の合意が成立したかどうかである。
右争点に関する当事者双方の最終的主張の要点は、次のとおりである。
1 被告の主張
(一) 原告は、本件退職願により退職の意思を表示し、原被告間の雇用契約の解約の申込みをした。
(二) 被告は、原告の右申込みに対して、平成三年五月一五日、同年九月末日をもって雇用契約関係を終了させる旨の承諾の意思表示をした。
2 原告の認否及び主張
(一) 被告の主張(一)、(二)の事実は否認する。
(二) 仮に、本件退職願によって原告が本件雇用契約の解約の申込みをしたとしても、右申込みの意思表示は心裡留保であって、原告に退職の意思がないことは被告も知悉していたから無効である。
第三当裁判所の判断
一 争いのない事実、証拠(<証拠・人証略>)によると、次の事実が認められる。
1 原告は、平成二年度当時、昭和女子大学短期大学部教授として国語国文学科の国語学概論その他の授業を受け持っていた。
2 原告は、平成二年中、昭和女子大学短期大学部国文学科の太田鈴子助教授と学生の指導上の意見の相違から対立したことにつき、被告代表者(以下「学長」という。)に対して、非は原告にあるとの報告がなされたことから、平成三年一月二三日に学長から呼び出され、テープレコーダーによる録音下で、国語国文学科の甲斐智恵子教授、太田助教授、大塚豊子助教授(いずれも同大学卒業生)らも同席して、同学科内の運営に独断的な面が多いとか、国文学科の研究誌の未発行問題(平成元年度予算に計上されていた研究誌の費用を発行前に被告から出金する手続をとった件)等について、教員らの一部で「査問」と呼ばれている学長からの事情聴取を受けた。
3 数日後、原告は、赤松大麓学科長から、このことで首になることはないと思うが、君の立場が現在のままということはなさそうだと言われ、学長には謝罪すべきだと勧められたものの、学長から指弾された点について自己に非はないと考えていたことから、どのように申開きをしたものかと迷い、一方的に謝罪をして非を認めることは自己の立場を危うくするとも思ううち、各種試験の実施等による多忙に紛れ、特段の対応をとらないまま時日を経過した。そしてさらに、同年二月二〇日、原告は、松本昭学監から、前記事情聴取を受けたのに謝罪に行っていないことを指摘され、まだ若く先があるだ(ママ)から「詫び状」を書いて謝罪するようにと示唆された。同大学では学長の意向次第で地位の帰趨が決まるという実情もあり、右のような経過から大学を追われることになるのを恐れた原告は、学長に謝罪することを決意し、同日、学長に面会を求めたが、当日は学長が出張中とのことで会えず、その後も学長からの呼出しがなかった。同月二七日、原告は、自ら作成した「詫び状」を持参して、教授会の会場から出た学長を追ってこれを学長に手渡そうとしたが、学長に受領を拒否されてしまった。
4 同年三月初め、原告は、学長から呼び出され、事情聴取以来約四〇日も問題を放置しておいたとして叱責されて謝罪した後、卒業生教員に苛められているとの噂話を流していると詰問された。原告は、親しい同僚に批判を浴びているなどと言ったことはあるが、苛められているとか噂話を流すとかはしていないなどと弁明に努めたところ、かえって学長の不興を買い、面談後、赤松学科長から、穏便に済ませることができなくなってきた旨告げられるに至った。そして、間もなく、学長は、松本学監に対して、原告を処分しなければいかん、教壇に立たせるのは無理だとの意向を告げた。
5 同月九日、原告は、学長から呼び出されて、松本学監、飯塚学生部長同席の上、別紙(二)「契約前の相互諒解事項」(被告においては、雇用契約前にこの書面を提示され、これに記載されている一一項目の事項を遵守することを約す誓約書を差し入れた上で雇用契約を締結している。)を示され、卒業生教員に苛められているとの噂話を流しているが、それは相互諒解事項七項に違反し、原告は既に資格を喪失している。勤めを続けたいのであればそれなりの書き物を提出するようにと指示された。
6 かくて、原告は、被告に雇用されて昭和女子大学短期大学部の教授として残りたいという強い希望から、「詫び状」というような体裁のものでは再び受領を拒否されるであろうと考え、また、同月九日には既に資格を喪失していると言われていたため、「進退伺い」という形式でもさらに勘気を蒙るものと思い、恭順の姿勢を最大限に示すためには、自ら進んで退職する意思のあることを示す趣旨の文書を提出した方がよいと思うに至り、本件退職願を作成し、同月一二日に再び学長から呼び出された際、その面談の席上で、本件退職願を学長に提出した。
退職を免れるために「退職願」を提出するということは、一般的観念の上からは甚だ異例のことであるが、同大学では、学長の意向に反した場合に残留を希望するがゆえに反省の意思を示す方法として進退伺いを提出することがままあり、原告が退職願と題して、客観的にはあたかも自ら退職を希望するかのごとくにみえる記載をした本件退職願を作成して提出した理由は、残留の希望が強かったために、配転等の決定権を掌握している学長の意向に副うよう、できるだけ強い反省、恭順の意を表そうと考えた一方、かつて先輩教員が反省の情を示すために同旨の文書を提出しようとしたところ、学長がこれを許し当該退職願いを受理しなかったと聞いた事例が念頭にあったこともあって、そのためには自ら退職の意思を示すような記載の体裁にした方がよいと思ったためであった。原告自身としては、学長がそのような表題の文書を見ただけで原告の反省の気持ちを理解してくれるのではないかと期待し、また、仮に退職願が受理されても、その内容として退職を希望する日付けの記載をしないことなどで、文面上も真意を分かってもらおうと思って工夫をしたつもりであった。
そして、原告は、本件退職願を提出した際、命ぜられて自からこれを読み上げたところ、飯塚学生部長から、「このまま辞めてしまうのか、それとも、今後も勤務を継続する中でもう一度やり直して大学のために努力したいという気持ちなのか、どちらなのか。」と尋ねられたため、後者であることをその場で明言した。面前の学長も、原告の右真意の表明をその場で聞き、「よし。」と言って立ち上がると、原告に対し、「慎重に行動しなさいよ。」と告げて同室を出た。
7 一方、松本学監らは、原告につき直接学生に接触する教員の職は不適当である旨の学長の意向に従い、原告を何らかの研究職に就けることを検討した。他方、原告は、赤松学科長を通じて、謝り方が下手だと示唆されるなどしたこともあって、同月末、所用で外出しようとしている学長を同大学玄関ホールで待ち受けて、学長に謝罪した上、勤務を継続したい旨述べたところ、学長から校門まで自動車に同乗するように言われてこれに従い、その車内で、学長に対して、さらに謝罪の意思を示すとともに、来期も同様に勤務を継続したい旨述べた。これに対して、学長は、身勝手な奴だななどと言ったが、その態度が穏やかだったため、原告は、一旦は、学長の態度が軟化しており、何とかそのまま勤務を継続できるものと思った。そして、間もなく、原告は、赤松学科長から、同年四月一日から暫くの間、有給休暇願を提出して自宅にいるように指示されたため、これに従い、暫く自宅謹慎という形をとっていた。
8 原告が自宅で待機している間、原告の妻は、原告と連名の同月一四日到達の手紙で、松本副学長(同月から役職名が変更)に対し、原告が被告の教員として勤務を継続したい意思を有しているので、一日も早く宥恕を得て職場での勤務に就きたい旨願い出た。
9 同月一六日、松本副学長は、被告の女性文化研究所等には明治以来の女性雑誌等の集積があるので、こうした雑誌の中で扱われているメインテーマの消長を追うことによって女性の価値観等の変化の跡をさぐるという研究に従事することを勧め、図書館の近代文化研究所に配置転換した上、一年ないし二年後に退職するという取り扱いを示唆した。
なお、同月分賃金は期日に支払われず、原告は、同月二六日付けの手紙で、学長に対し、同月分の賃金の支払がないことによる家計の窮状を訴え、原告としては、他に職場を求めることは考えておらず、職場に戻してほしい旨求めた。
10 松本副学長は、同月末、学長にその後の原告の取扱いを相談したところ、学長から、今後も一年くらいは面倒をみてやらないとまずいだろうが、真面目にやるかどうか誓約をさせた上で、様子をみるために一応同年九月まで雇用を継続するということにしておこうという意向が示されたため、同年五月二日、原告に呼出しをかけた。
11 右呼出し期日が一旦延期された後の同年五月一五日、松本副学長は、出頭した原告に対し、前記のような国文学科の研究誌の未発行問題が戒告又は諭旨退職事由を定める被告の服務規程五四条(6)号の「校務上の書類に偽りのあったとき」に該当するなどとして、教員としてのあり方に問題があると指摘し、しかし、原告も、その妻も、退職という気持ちはないのだから、原告自身が迷惑をかけたことを自覚し、国語国文学科の教員らに謝罪し、かつ、松本副学長において作成した誓約の趣旨の念書に署名押印するならば、前記配転により同年九月までの勤務の継続を認める旨話し、また、勤務継続期間を一旦同年九月までとする形式をとっても、実際には前記の仕事の内容は膨大で九月までで終わるようなものではなく、その間、中々よくやっているということになれば、自然に年度末まで続くことになるだろうから、真面目な勤務振りを示すことによって学長にさらに勤務を継続させてもらうよう努力すればよいなどと説得した。
続いて、同日中に、学長も同席した面談があり、その席上、松本副学長は、右と同旨の話をし、同月一七日朝出頭するよう指示した。
12 しかし、原告は、同月一七日には体調不良を理由に出頭せず、同月二三日付け内容証明郵便で、被告に対し、前記のような原告の真意を再度説明した上、早急に謹慎を解いてほしい旨及び同年四、五月分の賃金の支払をしてほしい旨申し出た。
13 右申し出に対し、被告は、同年六月一日付けの書面(<証拠略>)で、同年四月分の賃金については原告の銀行預金口座に振り込んで支払うこと、しかし、同年五月分の賃金については、原告の勤務がない状態が続いていることを理由に支払をしない旨通知し、そのとおり、同年四月分賃金を支払ったものの、同年五月分の賃金を支払わない状態を続けた。
そのため、原告は、同年六月一三日、本件訴訟(訴え変更前の請求である同年五月分及び六月分の賃金請求)を提起するに至った。すると、被告は、同年六月二八日付け書面で、原告に対し右各月分の賃金を支払う旨通知し、これを原告の前記口座に振り込んだ。
14 しかし、右振込金額は地方税の源泉徴収分が控除されておらず、これは自分で支払うよう通知されたことから、原告訴訟代理人らは、被告が原告の雇用契約上の地位を争う趣旨であるとして、同年七月一六日付け準備書面によって本件地位確認及び同年七月以降の賃金等の請求に訴えを変更した。
すると、被告は、原告に対し、「貴殿から本年三月一一日付にて提出された退職願につき、貴殿の再就職活動の便等を考慮して発令を猶予し、かつ自宅待機中も給与の全額を支給しておりましたが、このたび、平成三年九月末日をもって退職していただくことに決定いたしました。」と記載した同年八月二六日付け書面(<証拠略>)で、被告を退職すべきことを通告した。なお、同書面中には、同年九月二七日に昭和女子大学に出頭して退職辞令の交付等の手続を受けるよう記載してあった。
その上で、被告は、同年八月三〇日付け準備書面において本件退職願を申込みとする合意解約の主張をするに至ったが、その際は、「本件訴訟が提起されるに至ったため、同年九月末日をもって退職させることに決した。」旨主張した。
15 被告は、原告に対し、同年七月分賃金を同月二三日に、同年八月分賃金を同月二一日に原告の前記口座に振り込んで支払ったが、同年九月分以降の賃金を支払わず、その後、本件を本案とする仮処分の申立てがあり、被告に対し、賃金の仮払いが命ぜられた。
16 なお、被告は、平成三年九月分賃金につき、退職者に対しては、退職辞令の交付を行う際に最終の賃金を手交する慣行があるとして、前示のように同月二七日に出頭して退職辞令の交付手続を受けるよう通告したのに原告が出頭しなかったから支払っていないだけで、原告が出頭すれば支払う意思であるから訴求するには及ばないと主張している。
以上の事実が認められ、右認定に反する(人証略)の各一部は採用できない。
なお、被告は、本件退職願により退職の意思が表示されたものとして、平成三年五月一五日の面談の際に承諾の意思表示をした旨主張する。しかしながら、同日の後の被告の態度をみても、被告が、原告に対し、同年四月分賃金の振込支払を知らせた同年六月一日付けの通知(<証拠略>)の中には、本件退職願に関する最終的決定がまだ未定の模様などと、原告の退職問題が未確定であることが記載されており、また、同年八月二六日付け書面(<証拠略>)にも、「このたび、平成三年九月末日付けをもって退職していただくことに決定いたしました。」と記載されている。このような記載は、それ以前にはそもそも承諾の意思表示と構成し得るものがないことの被告の認識を窺わせるものといえる。のみならず、本件退職願提出の場に同席していた松本当時学監及び飯塚学生部長の供述をみると、まず、(人証略)は、前記認定のような本件退職願提出時における原告からの真意の表明を認める供述をしており、また、(人証略)は、右真意の表明を聞いたこと自体は否定するものの、その後、近代文化研究所等での研究業務に従事することを勧めるに際して、原告に退職する意思がないことを前提として被告側がいつまでの在職を認めるかという立場から説得を行った趣旨の供述をしている。そればかりか、原告に退職の意思がなかったことは、同年四月一四日到達の手紙、同月二六日付けの手紙等の客観的証拠にも明白に表れており、同年五月一五日当時、被告が承諾適格のある有効な申込みが存在しているとの前提には立っていなかったことは明らかであると解される。
二 右認定事実によれば、原被告間の雇用契約関係が合意解約によって終了したと解することはできない。
すなわち、本件退職願は、文面上は退職を希望する意思表示のように記載されているが、その実、退職を余儀なくされることを何とか回避しようとして作成されたものにすぎず、しかも、最初の提出の段階から、原告の右真意は明確に表明され続け、被告もこれを承知していたことが明らかである。とくに、被告が承諾の意思表示をしたと主張する平成三年五月一五日の段階においては、被告側は、原告に退職の意思がなことを当然の前提として、配置転換の承諾と自主退職の確定的意思表示をさせようとして説得していたもので、当時、承諾に対応し得るような適格のある申込みがないことを明白に認識していたと断ずるほかはない。前記認定のような経過に照らせば、被告は、要求した「書き物」としてたまたま「退職願」が提出されたことから、原告には退職の意思がないことを知悉しながら、あえてその文面を利用して原告を退職させようとしたものとみざるを得ない。
したがって、被告が主張する解約合意に関する申込みの意思表示は、民法九三条の心裡留保に該当するが、当時意思表示の相手方たる被告において右真意を知っていたものであるから、これをもって原被告間の雇用契約解約の申込みとして有効なものと解する余地がない。
そうすると、原被告間の雇用契約関係はいまだ存続しているものというべきである。
三 そこで、原告の賃金及び遅延損害金の請求について判断する。
1 原告の賃金額が平成三年三月現在一か月六一万九〇〇〇円であったこと、その支払期日が毎月二一日であったことは当事者間に争いがないから、本件口頭弁論終結(平成四年一一月三〇日)当時までの原告の毎月の賃金請求及びこれに対する各支払期日の翌日からの民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払請求はいずれも理由がある。
なお、被告は、平成三年九月分賃金につき、退職者に対しては、退職辞令の交付を行う際に最終の賃金を手交する慣行があるとして、前示のように同月二七日に出頭して退職辞令の交付手続を受けるよう通告したのに原告が出頭しなかったから支払っていないだけで、原告が出頭すれば支払う意思であるから訴求するには及ばないと主張している。その趣旨は必ずしも明白でないが、原告が出頭すれば支払うとの主張からして、本件賃金債務を取立債務とする前提のもとで、遅延損害金の発生を争う趣旨と解されるので、その点について付言する。賃金債務の弁済場所はそれを定める明文の規定は存在せず、また性質上当然に使用者の事務所であると解する根拠もない。そして、本件においては、前示のとおり、原告に対する賃金は、雇用関係に争いのなかった当時から継続的に原告の前記銀行預金口座に振込むことによって支払われてきたのであるから、一般的に本件賃金債務が取立債務であったということは困難であり、また、とくに退職に際しての最後の賃金のみについて被告による指定場所をもって法律上の弁済場所とすべき特段の事情を認めるに足りる証拠はない。したがって、右九月分賃金債務についても、確定期限たる同月二一日を経過した時点で遅滞に陥っているものというべく、被告には、同月二二日以降の遅延損害金を支払うべき義務がある。
2 次に、本件口頭弁論終結(平成四年一一月三〇日)後の賃金請求及びこれに対する各支払期日の翌日からの遅延損害金の請求についてみるに、使用者において労働者の雇用契約上の地位を否定し、その労務提供を拒否しているのに対して、当該労働者において就労の意思のあることを前提として雇用契約上の地位の確認を求める訴訟を提起している場合には、当該労働者の雇用契約上の地位を確認する旨の判決が確定するまでは、使用者において賃金の支払いをしないことが予想されるので、それまでの賃金及びその遅延損害金について予め請求する必要が認められる一方、右判決の確定後については、それでもなお当該使用者において当該労働者の就労を拒否して賃金の支払を拒むことが予想されるだけの特段の事情が認められない限り、賃金ないしその遅延損害金を予め請求する必要はないと解すべきである。そして、本件においては、右特段の事情を認めることができないので、本件口頭弁論終結後本判決確定に至るまでの間についての賃金請求は適法であり、かつ、理由があるが、その後の請求については不適法であるといわなければならない。
(裁判官 松本光一郎)